ほのぼのしているのはおまえだけ イヴァンが俺の目の前を、ふらふらふらふら歩いていた。その足取りのおぼつかなさは蹴飛ばしてやりたいほどだったが、本当に蹴飛ばすとボキリと折れて転がってそのまま動かなくなってしまいそうな気がしたのでやめておいた。 徹夜明けの朝でも部下相手に檄を飛ばしてハッタリかますような男だから、この情けない有様は、本当に心底相当参っているのだろう。丸三日くらい不眠不休なのかもしれない。それなのにまだ休もうとせず、おれの目の前を、ふらふらふらっふらしているのが腹立たしくてしょうがなかった。 「おい……、おい、イヴァン」 エレベータに乗り込もうとしているイヴァンに声をかけた。イヴァンはのっそりと振り返った。俺の顔を見てあからさまに嫌そうにする。 「なんだ、てめえも乗るのかよ」 「ああ。……って、なんちゅう声だよおまえ。かすっかすじゃないか」 「フン、誰かと違って安モンのタバコばっかり吸ってるからなァ」 「そういう問題かあ?」 俺は目を細めた。ともかくエレベータに乗り込み、扉が閉まるのを待つ。その間にもイヴァンの目は、細くなったり、急に丸くなったり、とおもいきや、ぱちぱちと眩しそうに瞬きしたりと、もうどうでもいいから寝ろよ!!と叱りたくなるような有様だった。 そんなに忙しかったろうか。こいつのことだから、ただ単に眠るタイミングを逃して、そのままずるずる仕事し続けちゃってるだけのような気もする。 「なあイヴァン。どうせこれからベルナルドのところに行くんだろ?」 「あァ?まあ、そうだけどよ」 「その前にちょっと一服していけよ。そんな疲れきった顔でベルナルドの所へ行ったって、あいつに無闇に心配されて、あと小言を言われるだけだぞ」 俺の言葉を聞いてイヴァンはしばらく黙っていた。これ以上ないくらい嫌そうな顔で。右は灼熱、左は極寒、さあどちらで暮らす?と聞かれて苦渋の選択を迫られているかのようだった。 「……まあ、ちっとくらいなら、休憩してやるか」 お前さえいなけりゃもっとよかったのになァ、という心の声が透けてくるようだった。俺は心の中で舌打ちしながら、そうしろそうしろ、と頷いた。 最上階のラウンジには、ベルナルドの部下が扉の番をしているくらいで、他には誰もいなかった。俺はソファにどっかり座り込む。イヴァンも黙って隣に座った。俺はイヴァンに葉巻を分けて、ついでに火をつけてやった。イヴァンは一瞬、気の引けるような顔をして、すぐにそれをごまかし、だまって煙を燻らせた。 自分の部下にコーヒーを持ってくるよう頼んで俺もタバコに火をつける。 「あー……つっかれた……」 イヴァンはかすかすの声でぽつりと呟いた。そりゃそうだろうよと俺は言いたかったが言わないでおいた。きゃんきゃん吠えられるとやかましい。し、この声で吠えられたら痛々しいだろう。 「疲れたときには甘い物がいいらしいぞ」 「アメならここ何日で、一か月分は消費したぜ」 「糖尿に気をつけろよ……」 「ケッ、それはジュリオの野郎に言ってやれよ」 イヴァンは目を細めて笑った。疲れているせいか、笑うとほとんど目がなくなる。少し可愛い。おれがぼんやりイヴァンをながめていると、部下がコーヒーを持ってきた。 「悪いな」 俺はカップにコーヒーを注ぎ、ひとつをイヴァンの前に置いた。イヴァンが、俺はいらねえ、と言いたそうにしているのには気づいていたが、無視してカップに口をつける。 「ふう。ようやく一息ついたな」 おれは首を回す。気持ちいいくらい関節が鳴った。 「……忙しかったのか?」 珍しくイヴァンのほうから話を振られた。俺は大げさに腕を広げ、 「あーあ、そりゃもう。あちこち回ってクタクタだ。シマに顔みせて、いろいろ振舞って、あと小競り合いを潰して、気がつきゃ夜は明け朝は過ぎ……」 と語る。俺の芝居がかった口調に、イヴァンは呆れたような顔で笑った。 「ははっ。ったく、やってること大してかわんねーな」 「だな。まったく、人に関わるのは疲れる……」 「けどまあ、おれは嫌じゃないぜ」 そう言うイヴァンの顔は、疲れていたが、どこか輝くようだった。これが若さかしら、と俺は少し嫉妬する。 「まあ、心底、疲れるけどよ……」 イヴァンはコーヒーに手を伸ばし、口をつけた。コーヒーはちょうど飲みやすい温度だったようで、一気に飲み干してしまった。俺は黙ってそれを見届ける。周りからはほのぼのした風景に見えているかもしれない。 しかし一つ断っておく。 この場でほのぼのしているのはイヴァンだけだ。 俺は静かに新聞を繰った。ラウンジにはノスタルジックなBGMが流れ、夕方の物悲しい雰囲気をいっそう煽っている。俺の隣にはイヴァンがいた。イヴァンは俺の肩に頭を預け、穏やかな寝息をたてている。 イヴァンを起こさないよう、慎重に新聞を読み進めた。不意にエレベータが開き、少し乱暴な足音が近づいてくる。 「うわっ、珍しい。イヴァン寝てるじゃん」 そう声を上げたのはジャンだった。俺はジャンを見上げ、にっこりほほ笑んだ。 「お疲れさん。今日は外に出てたんだな」 「そうですよん。ま、車の中に居る時間のほうが長かったけどネ」 ジャンはおどけて笑った。そしてまた、まじまじとイヴァンの寝顔を覗き込む。 「いやでも本気で寝てるなあ……。こんだけ近くで話してても、ぴくりとすらしねー」 「相当疲れがたまってたからな。本当はベッドに運んでやったほうがいいんだろうが」 「あとがやかましそうだな、そりゃ」 ジャンは肩をすくめる。それからイヴァンを挟むようにソファにすわり、 「信頼されてんじゃん、ルキーノ」 と悪戯っぽく笑った。俺は何も言わずに先を促す。 「この不眠症男はさ。よっぽど安心できるところじゃねーと眠れねえって、前にぼやいてたから。それがルキーノの肩ですやすや寝てるって、それ、相当の信頼だと思うぜ?」 「ふふ。いい話だな。けどなあジャン。それとこれとは、また、話が別なんだよ」 「うん?どういうこと?」 「まっ、平たく言えばな。一服盛ったのさ」 おれはにっと歯を見せて笑った。あー言っちゃった。俺は半ばやけくそだった。多分飲まないだろうなあと思っていたコーヒーにまんまと口をつけたイヴァン。それも気持ちいいくらい一気に飲み干して。そのときの、俺の心中が分かるか?自分に拍手喝采。それから急に、焦り。おいおいこれってイヴァン本当に寝ちゃうんじゃ……という俺の予感は見事に的中し、あの後すぐイヴァンは目をこすりだした。 「どうしたイヴァン?眠いのか?」 平静を装って聞く俺。人間案外ぺろっと嘘はつける。イヴァンは寝ぐずる子どものように、不機嫌な声を上げ、ソファの上でそわそわし出した。 「俺にもたれてろよ。もしお前が寝そうになったら起こしてやるから」 俺がそういうと、イヴァンはすぐさま俺の肩に頭を置いた。うわあああ、と俺は内心でパニック寸前だったが、イヴァンの寝しなの、「ぜったい、おこせよ」という掠れた声を聞くと、不思議と落ち着いた。かわいそうになった、のかもしれない。自分の中のよく分からない感情が、イヴァンを保護したがっていた。イヴァンの呼吸はすぐに寝息にかわり、俺は、なんとも言えない気持ちで、それを聞いていた。 「えげつない」 「わっはっは。そうだろう。俺もなあ、ちょっとえげつなかったかなあなんて、良心がちくちく痛んでたところだ。おまえに打ち明けて、逆にすっきりした」 「どうしよーもねーなー。でも、やっぱさ、ルキーノ」 「うん?」 「おまえ、信頼されてるよ」 「う…ん?そうか?」 「そうそう」 ジャンはソファから立ち上がり、極上のスマイルを浮かべて手を振った。 「たぶん、目を覚ましたイヴァンは、そんなに怒ってないと思うぜ。あとは上手いことやれば?んじゃねー」 軽やかな足取りでジャンは去っていった。それと同時に、イヴァンが喉の奥で小さくうなって、額をルキーノの肩にこすり付ける。息をたっぷり吸い込み、また深い眠りに落ちていく。 俺は急にどぎまぎしてきた。 なんだこれなんなんだろうねこの気持ち!イヴァンが肩にいなかったら、地団太踏んで悶えていた。今はそれが出来ないから、ただ歯がゆい気持ちで、眠りこけるイヴァンを支えている。 おしまい 2010年4月24日 保田のら |