爪をだしてひっこめて



「くそ、この、おとなしくしろって!」
 腹の底から燃え上がるような声だった。こわい、怒っている、葉村くんがすごく怒っている、ように見える。おもわず僕が逃げるように顔をそむけると、葉村くんはますます険しい顔で、なに、びくついてんだよ、めんどくせえ、と言った。僕はどうしても葉村くんの顔を見れない。逃げたくてたまらない、体が勝手に後ずさる。
「空閑、てめえ、」
 葉村くんの空気を切るような鋭い声、それから、影が動き、僕の頬と首に、熱い衝撃が走る。
「っつ、」
 僕は思わず声をあげた、痛い、ではなく、熱い、と言っていた。そしてすぐに、その熱かったところが、ひりひりと痛んでくる。葉村くんの爪が、僕の頬と首すじをひっかいたのだった。僕はなんとなく、僕のことを嫌っていやがるネコたちを思い出した。僕を拒むあのするどいつめを、葉村くんも、もっていたんだ。
「あ、……」
 しかし葉村君は、ネコと違い、顔を青くして爪を引っこめた。丸くなった手が僕の傷に触れようとする。
「悪い、おれ、」
 葉村くんの声は怯えていた。ほんの少し、震えてさえいる。そうして、おずおずと、彼の手が僕にのびてきて、僕は反射的に体を反らして逃げた。葉村くんの手が追いかけてくる。たぶん、僕の傷をいつくしもうとしてくれているのだ、それは分かっているのに、僕の心を支配しているのは、圧倒的な恐怖だった。
「いや、だっ」
 僕はおもいきり腕をふりはらった。ゴツ、とかたくて重い衝撃が走る。それでもまだ、自分にのしかかる影がこわくて、今度は足でめいっぱい蹴りあげた。
 葉村くんが、僕から退いた。退いたというより、むりやり、突き放したのだけれど、いまの僕にはそんなことを気遣う余裕はない、立ち上がり、葉村くんのほうを見ずに、きびすを返して部屋からでた。


 誰もいませんように、と祈りながらあけた扉の向こうには、みんながいた。
「どうされましたか。そんなに慌てて」
 菅野さんがいつもどおりの落ちついた声でそういった。僕は苦笑いをして、口ごもる。
「……?」
 菅野さんが立ち上がり、僕の顔をのぞきこんだ。びっくりして顔を背けたけれど、もう遅い。
「けが、したのですか?頬と、首が、赤いですが」
「う、うう、あの、いや、ええっと……」
「えっ、けが?空閑くんだいじょうぶ?」
 広瀬くんが菅野さんの言葉をきいて、おどろいたように顔を上げる。ますます気まずい。なにも説明できずに、僕はただおろおろと立ちつくす。
「でもさあ、空閑くん、いままでハム男の部屋にいたんじゃないの?さっきそう言って出てったよね?」
 法月先輩が首をかたむけてそう言った。そして、みるみるうちに顔を青くする。
「ま、まさか。そのけが……ハム男!?」
 法月先輩の声に、広瀬くんと菅野さんも、不安そうな顔で僕を見た。
「い、いや、さすがの葉村くんも、友達に暴力はふるわないんじゃないですか…?」
 広瀬君が苦笑してそう言った。僕はとっさになにも言い返せない。
「え、あの、空閑くん?否定しないの?」
 広瀬くんの顔が青ざめる。菅野さんが僕を追いこして、扉に手をかけた。
「あ、あの、どこへ……?」
「葉村くんの話を聞いてきます。空閑くんは、すこし、混乱しているようなので」
「えっ、ええっ……」
「みなさんは、しばしここでお待ちください」
 菅野さんはきっぱり言い放つと、談話室から出て行った。残された僕と、広瀬くんと、法月先輩は、ぽかんとしてそれを見送る。
「……でもじっさいさ、だいじょうぶなの?空閑くん。ハム男にいじめられてるんなら、おれたちがこらしめてやるけど……」
「あ、あの、それは、ちがいます……!」
 ようやく否定できた。ほっとした心持ちで、僕は胸をなでおろす。
「でも、それじゃあさっきはなんで否定しなかったの?葉村くんじゃないって……」
「そ、それは……」
 葉村くんじゃない、ことはないからだった。けれどあの複雑な状況を、どう伝えればいいのかわからない。僕があいまいな顔をしていると、法月先輩はやさしく笑ってくれた。
「まあ、ハム男がいじめてるわけじゃなさそうだし、スガちゃんが戻ってくるのを待とっか」
「そうですね」
 広瀬くんもうなづいて、僕たちはしばらく談話室でお茶をすすっていた。


 しずかに扉が開き、菅野さんがもどってきた。
「スガちゃん、おかえりー。ね、ハム男、どうだった?」
「……」
 菅野さんは眉根をよせて黙りこむ。それから、クッキーをほおばる僕をみおろして、
「空閑くんに、あやまってほしいと、言いつかりました」
と言った。せっかくなごみかけていた場の空気が、またぐんと冷えこむ。
「そ…それって、やっぱりこのけがは葉村くんのせい、っていう……」
「しかし、」
 広瀬くんの言葉をさえぎって、菅野さんが口を開く。
「しかし、葉村くんもまた、けがをしていました。……わりと、すごいあざをつくって」
 しん。と、空気がしずまり返る。僕は血の気が引くのを感じた。あのとき、葉村くんをむりやり振り払ったとき、僕は葉村くんに、けがをさせてしまったのだ、僕のせいで、葉村くんが、けがを……。
「空閑くん」
 菅野さんが僕の肩に手を置いた。
「そんなに、悲しそうな顔をしないでいただきたい。葉村くんはたしかに、鼻血をたらし、ほおに青あざを作って、それはもう無様な姿でしたが、それ以上に、わたしを見るなり、こう言ったのです。空閑はそっちにいるか、たのむ、あいつに、悪かったって伝えてくれ、と」
「は、葉村くんが……?」
「はい。なんのひねりもなく、ストレートに」
「ハム男にしたら、そうとうめずらしいね」
 法月先輩はそう言って、僕の顔をそうっとのぞきこんだ。そうだ、上手に伝えられなくても、僕はちゃんと話さなきゃいけない。僕たちのために、みんなが心配してくれている。
「あ、あの、…僕の話、きいてくれますか、」
 僕の言葉に、みんなは一様にうん、うん、とうなづいた。


「なあああにそれ、くっだらなーい、ハム男がわるい!沸点ひくすぎ!!」
 僕の話がおわった瞬間に、法月先輩が声をあげた。広瀬くんも疲れきった顔をしている。
「じゃあ、さいしょは、空閑くんの顔についていたゴミをとろうとして…?」
「う、うん……、」
「自分で取るよって言ったら、取ってやるって言い出して……」
「う、ん……」
「それで葉村くんが苛々しだしたあげく、手ががっつり空閑くんに当たって傷をおわせてしまい、逆上した空閑くんは葉村くんにきっちり報復した、と」
「す、菅野さん、それはちがうよ…!」
 僕はあわてて口を挟んだ。菅野さんは表情を変えずに、冗談です、と言った。
「まあ……、もうこの話は終わりでいいよね。けんか両成敗!ってことで!」
「けんか…なのかも、微妙ですけどね…」
 広瀬くんのためいきで、この話に区切りがついた。僕はみんなの談笑を聞きながら、葉村くんのところへあやまりにいこうと、そればかり考えていた。


 ドアの前で深呼吸をして、そうっと、ノックをする。返事を待っていると、とつぜんドアが開いた。
「わ…っ」
「空閑、」
 ドアから顔を出した葉村くんの顔をみて、僕は目を丸くする。菅野さんが言ってたとおり、ほおに痛々しい青あざができていた。
「そんな顔すんなよ」
 葉村くんは小さく笑って、中にはいるよう促した。僕は部屋に入ってドアを閉める。それから葉村くんの顔を見た。
「ご、めんね、」
「ごめん」
 僕たちの声は同時だった。つぎに何かを言う前に、葉村くんの手がのびてくる。
「ひゃっ、」
「みみずばれになってら」
 首すじがくすぐったい。思わず肩をすくめると、葉村くんがもういちど、悪かった、と謝った。
「そ、そんな、僕のほうこそ、本当にごめんね……すごいあざ、」
 僕も葉村くんの顔に手をのばし、青くなっているところをなでた。葉村くんは苦笑いをして、
「くすぐってえよ」
と言った。
 よかった、もう、葉村くんは怒っていない。僕にとってはそれが何より嬉しくて、安心する。葉村くんはうつむいて、ぽつ、ぽつ、と話し始めた。
「おまえがさ、……おまえが、びくついて、おれのこと怖がってるのが、なんか、すげー嫌で。……嫌、じゃねえな。悲しいっつーか、悔しいっつうか。変に、ムキになっちまった」
「そ、そうだったんだ、……」
 ごめん、と謝りそうになって、謝ったらまた葉村くんに怒られる、と、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 葉村くんは、言いたいことをいってすっきりしたのか、さっきよりずっと晴ればれとした表情で、もういちど僕の傷をなでた。
「なんか、おれ、こんな風にけんかしたの、初めてかもしんねー」
 そんなことを、なぜだか上機嫌で言いながら、しばらくの間そうしていた。


おしまい

2010年6月17日 保田のら