夢のなかで



 夢のなかでおれはだれかにミサキと呼ばれていた。あまりに親しげにそう呼ばれるものだから、おれは、すっかり心をゆるして、そいつのことを、ひどく慕っていた。そいつの姿が見えると心が弾み、かまってもらいたくてしかたなくて、でもそんなこと素直にいえず、ただ右往左往、おろおろとうろたえて、そいつの笑顔みては、ほっと息をついていた。
「ミサキ、おれはおまえに会いてえよ」
 そいつはそんなことを言い出した。
「なんだそりゃ。いま、会ってるじゃないか」
「そうじゃねえ。そうじゃねーんだ」
「……?」
「今のおまえだっておまえだけど、おれが会いたいのはおまえじゃねえ。ミサキに会いたいんだよ」
「…何を言ってるのか、さっぱりわからん」
「わからねえ時点で、おまえはおれの会いたいおまえじゃねえ」
 ひどいことを言われている気がするのに、少しも腹が立たない。こいつに大事に思われているのが、ひしひしと伝わるからだ。おれはあいまいに笑う。そういう顔をすると、こいつが、無性に悲しそうにするのをしっていて、そうする。
「ミサキ」
 名前を呼ばれる、その響きが好きだ、涙が出そうなほどに。





 夢のなかでおれはだれかに先輩と呼ばれていた。その尊敬や憧れのまじったようなひびきに、おれはむずむずとしてしまう。だが嫌な気はしない。おれもまた、そいつのことを大事に思っているからだった。
「先輩、ちかごろ、いかがでしょう」
「なんにも変わらないよ。おれは昔も今も、ガッコの先生をがんばってるだけさ」
「そうですね。そうですよね」
 そいつはとても優しい声をもっている。胸の奥のやわらかいところを、そっと撫でてゆくような声だ。
「だからあなたがすきでした、先輩」
 水面にそっと石を投じたような透き通った音。おれがうっとりしているうちに、夢は覚め、おれは何もかも忘れて目を開ける。そこには何の疑問もなくいつもどおりの日常が広がっていて、おれは、そこへ身を投じながら、若干の違和感に胸をちくりと痛めるのだった。





 夢のなかで菅野が泣いていた。おれの知っている菅野じゃない、ただひたすらわんわんと泣く、ただの女の子だった。
「どうした、菅野、だれかにいじめられたのか」
「先生、好きです、先生」
「菅野?」
「好きなのです、先生、はやく思い出してください、好きです、好きです……」
 ぬぐってもぬぐっても溢れてくる涙、菅野は両手でごしごしと目をこすり、肩を震わせ、ずっと泣いていた。
「私は先生が好きです、先生を取り巻いていた、あのあたたかな空気が好きです、戸神先輩や、小田島先生の、やさしさが好きです、あんなにも立派な人たちが、先生を中心にして、力を尽くしてくださったのに、先生、早く思い出してください、好きです、私はこんなにも先生が好きなのです」
 菅野が何を言っているのか、さっぱりわからない。出てくる単語すべて、耳をすり抜ける。なのにこんなにも悲しいのは、菅野の涙にもらい泣きしているからだろうか。ただ悲しい。悲しい。





 夢から覚めて、まったく少しも自覚はないが、ためしに、「おれは忘れている」とつぶやいてみた。胸がざわつき逆立った。
「おれは…、忘れている」
 ぞくぞくと、這い上がるような悪寒がある。
「おれは忘れている?」
 ひざがそわそわと震えだす。
「おれは忘れている」
 ああどうしたことだ、おれは忘れていることなんてひとつもないと分かっていながら、忘れていると呟いてしまう。
「おれは忘れている!」
 おれの叫びは朝の空に消え、漠然とした悲しみだけがおれを満たす。それは溢れそうになるたびに、なにかに調整されるかのように収まり、もう、悲しかったことさえなかったことになってしまう。
 おれは顔を枕に突っ伏し、ああ、ああ、と泣きまねをしてみた。すぐに本当の涙が出た。抑えていたものが、抑えられていた分だけ、じわじわと世界を食み出した。


おしまい

2010年8月10日 保田のら