耳の裏側


 あついよう。おれは泣き言のようにそういって、天を仰いだ。となりでは、犬飼が水道に頭をつっこんで、水をざぶざぶ浴びている。両手で顔をごしごし洗って、ぷはあ、と息継ぎをしながら顔をあげた。そして蛇口をひねって水を止め、タオルで顔と髪をごしごしふいて、最後にめがねをかけて、ああ、さっぱりした、と笑う。
「お前も、小熊も、髪きればいいんだ。さっぱりするぜー」
「うう…犬飼はいいよな、短くて、涼しそうで…」
「おお、涼しいぞー。いつでもがしがし洗えるし」
 犬飼はにっこり笑った。その笑顔がさわやかで、まるでスポーツマンのようだった。実際、スポーツマンなんだけど。
「しっかし、こう暑くちゃ、なんにもしてなくても、ぼんやりしちまうなあ」
「おれも気が遠くなりそう…」
 おれは額に手を当てて、目をつむった。汗で、髪の毛が額や首すじにはりついている。手でかきあげると、じっとり湿っていて、うっとうしくなる。ああ、暑いのはいやだ。
「でも、ほんと、切りゃあいいのに、」
 犬飼は呆れたようにそう言った。その言葉と同時に、犬飼の手がのびてきて、おれの頬をかすめ、髪にふれた。思わず肩がはねる。犬飼は苦笑した。
「ああ、うっとうしい毛。」
 そういいながら、指でチョキをつくり、おれの毛を挟んで笑う。
「それにしても、すごい汗だなー。白鳥、暑いだろ?」
「そりゃもう!暑いよ」
 おれは早口でそう言った。犬飼の一挙一動にどぎまぎしているなんて、ぜったい、何があっても悟られたくない。犬飼はいつもと変わらない様子で、悪戯っぽく笑う。
「…ま、おれ、お前の髪型、けっこう好きだけど。なんかふわっふわしてて…」
「ふ、ふわっふわ、」
「そうそ。いいじゃん、そのうち、白鳥君のその頭に顔をうずめてもいいですか、なんて女の子が出現するかも」
「しないよ!」
 そもそもそんな子はいやだよ。おれは力なく抗議する。犬飼はけらけら笑った。
 ときどき、犬飼はすべて分かって、分かってなおおれをからかって遊んでいるのではないか、と思うときがある。犬飼はかしこいやつだ。でも、かしこいからこそ、もしすべて分かっているなら、からかって遊ぶのではなく、おれを、無難なところへ帰そうとするとおもう、こいつの性格からして。おれに勘違いを気づかせ、おれを悟らせ、そっと、気づかぬうちに、自分から遠ざけつつ、一般に許容される範囲の場所まで戻そうとする、と思う。ごく自然に。犬飼はかしこい。
 だから、そうしていないということは、きっとまだ何にも分かっていないんだろう。もしくは確信していないのか。
 こういうことを、ぐちゃぐちゃ考えるのは、たぶん健康に良くない。おれは頭を振って、もう、考えるのはやめにした。
「もどろっか、」
「おー」
 適当に言葉をやりとりして、おれたちは弓道場へもどる。おれは犬飼に続いて歩きながら、犬飼の短い髪の毛や、日に焼けたうなじや、汗ばむ背中や、耳の裏側を、見ていた。ああ、やはり頭がぼんやりする、けれども、けっして夏の暑さだけのせいではないのだろう。


おしまい

2010年5月20日 保田のら