前へ前へと


 くつひもをしっかりと結びなおす。いつもどおりにやれば、きっと勝てる、そう自分に言い聞かせながら。顔を上げると、犬飼と目が合った。犬飼はおれをみると、歯をのぞかせて不敵に笑った。とたんに、胸がつぶれるように痛み、胃のあたりがそわそわしだす。がらにもなく緊張してきた。ああ、ぜったいに負けたくない。こいつに勝ちたい。おれは心の中でぎらぎらと燃える炎をいさめる。
 白鳥が、もういい?と聞いてきた。
「おれはいつでもいいぜー。今日は足がかるい、かるい」
 犬飼が軽やかにそう言った。
「宮地ー、おれに負けたって、泣くんじゃないぞ」
「それはこちらのセリフだ」
 おれが噛みつくように言い返すと、犬飼はますますうれしそうに笑う。よほど自分の足の速さに自信があるのだろうか。だが、おれだって、負けるつもりはない。
「んじゃ、はじめますか。ふたりとも、スタートラインに並んでー」
 白鳥がそういいながら、笛を口にくわえる。おれと犬飼は横にならび、身を低くして合図を待った。
 心臓が痛い。口から飛び出そう。こんなにも緊張するなんて。
 犬飼もいっしょだろうか。おれのよこで、こんなふうに、ぴんと張りつめているのだろうか。
「ではでは。位置について……」
 白鳥の声で我にかえる。集中しろ。おれはぜったいに負けない。
「よーい、」
 ピッ。
 白鳥の笛の合図とともに、おれたちは駆け出した。トラック二周、全力勝負。まず前に出たのはおれだ。瞬発力ではだれにも負けない。このリードを崩さずに、最後まで走りきる。
 犬飼の駆ける足音が、すぐ後ろから聞こえる。やっぱり速い。よく知った友人の、よく知らなかった真剣な姿は、おれに焦燥をもたらす。
 一周走りきった。まだおれがリードしている。息が苦しい、苦しいどころか、胸が熱くて、もう自分がほんとうに息をしているのかどうかも分からない。足の動かしかた、腕の動かしかたもわすれてしまった。いまどうやって動いているのか、それを意識しだすと、すぐさま足がもつれておれは転ぶだろう。おれは思考にふたをして、ただ、ひたすら、前を目指す。
「宮地、走りきれー!」
「犬飼先輩、追い抜かしてください!」
 ゴールから歓声がとんでくる。最後のカーブをまがる。あとは直線、走りきる、勝つ!
 おれがゴールを見据えたのと、犬飼の体が前に出るのは同時だった。犬飼のからだは、よくはずむバネのように、一歩、一歩、足を前に出すたび、おれの敵わない速度で、のびやかに前へ遠ざかった。ゴールラインを越えてもしばらく止まれず、おれは犬飼の背中を追いかけた。犬飼がゆるやかに速度を落としたのにも気づかないで、おれはそのまま犬飼に後ろからぶつかってしまう。反射的にふんばったが、自分の勢いはおさえられず、犬飼を巻き込んで派手に転んでしまった。
「うわっ、だいじょうぶかー!」
 白鳥が駆けてくる。遅れて小熊も。おれは犬飼にあやまろうとしたが、息が荒くて、苦しくて、それどころではなかった。犬飼も体をおこして地面に座り込み、空をあおいで、同じようにあえいでいた。
 どっと汗がふきだし、ひたいや、首や、背中を濡らす。ちらりと犬飼の様子をうかがうと、犬飼も、だらだらと汗を流し、うっとうしそうにめがねを外すと、顔をそでで乱暴にぬぐっていた。おれの視線に気がつくと、肩で息をしながら、目を細めてにんまり笑う。
「おれの、勝ち。はあー、しんどっ……」
 おれも呼吸の合間に、どうにか言葉をつむぐ。
「…一周なら、っはあ、おれが、勝ってた」
「でも、勝負は、二周勝負、だろっ」
 だからおれの勝ち。犬飼はうれしいというより、面白がるような顔で、ふたたびそう言った。
「ふたりとも、速えーなあー」
 白鳥が目を丸くしてそう言った。おいついた小熊も、首をかしげて言う。
「これで、けっきょく、部活対抗リレーのアンカーは、犬飼先輩ですか?」
「いんや。宮地だよ」
 犬飼は首すじにながれる汗をぬぐいながら、そう言った。おれは犬飼の顔をのぞきこむ。
「なぜだ、おまえの、勝ちなのに」
「そう。勝ったほうが、決めるって、約束だったろ。おれ、アンカーなんて絶対いやだもん」
「ええー、アンカー、かっこいいじゃん!」
 白鳥が口を尖らせる。小熊は苦笑して、僕はそのきもちちょっと分かります、と言った。
「一番手が夜久だろ、んでまあ、ぼちぼち走って、ラストツーでおれががーっと追い上げて、アンカーの宮地がそのまま突っ走って一位でゴール。どーだ。このシナリオ」
「……おまえがそれでいいなら」
 おれは呆れてそう言った。そういいながら、犬飼からバトンをうけとる瞬間を想像していた。あのぐんぐんと前へ伸びていくからだ、が、そのときはおれを目指して走ってくるのだ。
「一位になったら、せんせい、なんかおごってくれるかなー」
 犬飼はのんびりそんなことを言っている。おれは、ああ、と上の空で返事をしながら、バトンの重みをてのひらに想像している。


おしまい

2010年6月13日 保田のら