それはやがてしぜんとあふれる



 犬飼は肩を落とさなかった。
 ただ困ったように笑って、歯を見せ、
「やっちまったよ。ほんと、スマン」
と、言った。
 白鳥あたりが、スマンじゃすまないぞ、なんていうかなあと思ったが、白鳥は悲しそうな顔で、じっと押し黙っていた。となりにいる小熊も、おろおろと、成り行きを見守っている。
 いまになっては、あのとき、冗談っぽくでも、犬飼を責めてやればよかったのかもしれない、と思う。おまえのせいで負けたじゃないか、とか、学校戻ったら校庭50周、とか、べつになんでもいいから何か言えばよかった。
 でもそのときはできなかった。
 とても、できなかったのだ。




 おれは早朝練習をするために弓道場へ向かった。弓道場はすでに開いていて、木ノ瀬か夜久かな、と考えながら中に入る。
「おはようございます。」
 一礼して弓道場に入ると、そこには、黙々と的に向かって矢を放つ犬飼がいた。
 犬飼はおれに気づいたようだが、こちらを見なかった。すべて矢がなくなるまで、ひたすら弓を引いている。おれはその気迫に押されて、ともかく自分も練習しようと、少し離れた的の前に座った。
 ちらりと犬飼の矢を見る。矢はほぼすべて的を射ている。昨日の今日で矢が乱れているかと思ったが、その心配はなさそうだった。
 とうとつに、犬飼が立ち上がった。
「おまえも弓を引けよ、宮地」
 棘のある口調でそういい、おれをみて目を細める。
「それとも、おれが落ち込んでるかなー、とか、気になっちゃってる?ハッ。余計なお世話だっつーの」
 普段の犬飼からは想像もできないようなギスギスした雰囲気だった。おれは言葉を失い、ただうろたえる。犬飼は口の端をつり上げて笑った。
「いいんだぜ。そうやって気ぃ使われるくらいなら、オーダーから外されるほうが、よっぽどいいよ。な、部長さん」
 そこまで言い切ったあと、不意に、苦しそうに顔をゆがめ、うつむいてしまう。おれは犬飼を気遣ってやりたくて、でも言葉がなにも出てこなくて、歯がゆく、もどかしい、そうしている間に犬飼はきびすをかえし、弓道場から出て行ってしまった。
 おれは混乱しながら、犬飼の矢が刺さったままの的をみた。そのまましばらく、ぼんやりと座っていた。




 放課後の部活に犬飼は来なかった。やっぱりまだ、弓をさわりたくないのかな、とつぶやく白鳥に、
「いや。今朝、自主練習をしていた」
と伝える。
「自主練習?犬飼が、ひとりで?」
 白鳥は目を丸くする。それからため息をついた。
「それって、重症だなー…」
 おれは今朝犬飼が射た的を見ながら言う。
「……矢は乱れていなかった」
「それがよけいに悔しかったんじゃない?じゃあ昨日の試合はなんなんだよ、って」
 まあ犬飼のことだから、放っておいてあげよ、と自分に言い聞かせるように呟いて、白鳥は練習に戻っていった。おれも弓を取り、朝、犬飼がいた場所に座る。的をじっと見つめる。息を吸い、吐き、止め、弓の世界に集中する。




 みなを帰らせ、おれは残って練習を続けた。さっきつかみかけた何か、集中と緊張の先にある、ひどく落ちついた何か、を、忘れる前にもういちど感じたくて、おれはひたすら弓を引く。
 矢がなくなり、息を吐いて、そこでようやく、おれの背後に人がいたことに気づいた。
 あわてて振り返ると、犬飼が、気の抜けた笑みを浮かべておれを見ていた。
「無用心だなー、宮地は」
 おれと目が合うなり、犬飼はそう言って笑った。おれのそばまで歩み寄り、よっこらせ、と座る。それからとつぜん、ぺこりと、頭を下げた。
「い、犬飼、」
「なんっつーか、ほんと、悪かった。今朝は、おれ、ちっとどうにかしてたんだ」
 犬飼はそういって深々と頭を下げた後、顔を上げておれを見た。真正面から目が合って、犬飼の瞳が揺れる。きっとおれの目も、おなじように震えたのだろう。
「ほんと、ごめんな、宮地。おれ、昨日の試合のことで、すっげー、気持ちが落ちてて。そこにお前が来ただろ。もう自分でも自分を止めらんなくてさー、つい、つい、八つ当たりしちまった」
「八つ当たり、」
「そうそう。あれで来たのが夜久とか、木ノ瀬だったら、逆に無理して気張ったかもしれねーけど。お前だったし、なんかもう、ふきだす負の気持ちを抑える気さえなくなってさ」
 おかげで今日一日中、自己嫌悪しっぱなしだぜー。そう笑う犬飼の顔は、吹っ切れたように見えた。
 おれは口を開く。自然と言葉があふれ出す。
「おれは、……おれは、嬉しい。犬飼が、そうやって自分の気持ちを言ってくれることがうれしい」
「うおっ、でた、宮地節。恥ずかしいからやめれー」
「聞いてくれ。お、おれだって恥ずかしい。……おまえが、その、八つ当たりとかするっていうのは、つまり、おれに甘えてるってことだろう?気を許して、甘えてるんだ。家族みたいに。それがおれは嬉しい。……以上だ」
 頬が熱くなる。おれは手のひらで頬を乱暴にこすった。犬飼はなにか軽口でもいいそうな、いたずらっぽい顔をしていたが、急に、ふと、力を抜いた。
 かなわねえなあ、と、小さく呟いた後、うつむいてしまう。ぽとりと涙が落ちるのを、おれは見逃さなかった。
「ほんとはさー…。まだ、ちっと、悔しいんだよな。昨日のこと……。終わったことだし、次で挽回するしかないって、わかってんだけどさ。心がいうこと聞いてくれねーのよ」
「ああ」
「だからつらい。宮地、なぐさめて」
「ああ、」
 おれは手を伸ばし、犬飼の肩をたたいた。犬飼が嗚咽をあげ始めたので、少し躊躇したあと、犬飼を抱きしめるように腕を伸ばして、背中をさする。
「おまえのなぐさめかたってさー、古典的な……」
 犬飼は鼻声でそう言って笑った。おれはなにも言わず、しばらく、そうしていた。



おしまい

2010年7月3日 保田のら