おれがいちばんこわいのは





おれからあふれる暗い情念は、やがて染み出し世界を黒く染めてしまう、なんてことは、いっさいなく、ただ世界はおれとは関係ないところで健全に回り、おれの足元だけが、暗く黒く汚れている。おれがひざまずいて、ゴシゴシと、一心不乱に汚れをてのひらでこすりとる、そのあいだにも、おれから染み出した暗闇は、おれの腹を伝って足を汚す。
清くうつくしい世界の中、おれだけが、行くあても収まるあてもなく、交われずはじかれて、ただぽつんとそこにいる。






 おれがうたた寝している間に、料理はできあがり、食べつくされ、後片付けさえ終わっていた。
「おーこーせーよー」
「チッ……そうは言うが、おまえ、起こすのが忍びないくらい、熟睡していたんだぞ。べつに料理くらい、いつでも作れる」
「そりゃ、おれが寝こけてたのが悪いんだけどさ、でも飯が食えねーんじゃ、ここで待ってた意味ねーじゃん」
「ああ、まあな」
 ヨウスケは淡々と言いながら立ち上がる。おれは調理室の冷たいテーブルにつっぷして、おれの昼飯い、と声を上げた。そうやって哀れっぽい声をだすが、その実、食いはぐれたことはもうどうでもよくなっていた。というかたいていのことはおれにとってどうでもいい。
「んで、ヨウスケくんはそこでなにをしているのかなー」
 おれは頬杖をついてヨウスケの背中に向かって言う。ヨウスケはこちらをちらりと見て、
「スープを温めなおしている」
と言った。
 おれが目を丸くすると、あいかわらずの口調で、
「寝起きでも食べやすいかと思って。」
と、小さく笑うのだった。
 おまえいいやつなあ、と、背中に抱きついてやろうかと思ったが、料理中のこいつにさわろうとすると、ほんとうに信じられない勢いで怒られるので、ぐっとこらえておく。
 おわんに山盛りスープをいれて、スプーンと一緒におれの目の前に置かれる。
「うまそう、」
 おれは素直にそう言って、素直に言った言葉ほど恥ずかしいものはないので、あわてて手を合わせ、いただきまあす、と食べ始めた。
「ゆっくり食えよ。やけどするぞ」
「だいじょうぶだって。おれ熱いの得意だし」
 と、口からでまかせを言ってスープを口に運ぶ。
「おまえは食わねーの?」
「ああ。さっき、二人分の料理を食べたからな」
「おーこーせーよー…」
 おれは恨みがましい声をだして、スープをひたすら食べた。ヨウスケはときおり窓の外を見たり、調理器具を見たりしながら、おれが食べ終わるまでずっとそこに座っていた。




 孤独は怖くない、孤立も、無視されるのも、べつに、いい。おれがいちばんこわいのはそんなことじゃない。そんなことでおれはぶれない。ぶれたくてももう心がそんなことには反応してくれない。
「ヒジリって、いいやつだな。感謝してる。ありがとう。ヒジリがいてくれてよかった、これからもいっしょにいてほしい、ヒジリと一緒ならきっとどんなことでも乗り越えられる。
 今言ったことぜんぶ、うそだよ。」

 おれがいちばんこわいのは!




 練習室で、ギターを爪弾き、鼻歌をうたっていて、ふと気づくとソファでヨウスケが眠っていた。前と立場が逆だな。おれは鼻歌を歌いながら、ヨウスケの顔をのぞきこむ。
 ヨウスケのまぶたはそっと閉じられて、その奥にあの青い目があるとはとうてい思えない。
 おれはそばに座り、おだやかなバラードを歌った。歌いながら、おれ、寒ぃな、と心の片隅で自嘲する。眠っているおれのためにスープを作ったヨウスケは、そんなこと感じなかっただろう。スープでも作ってやるか、と、ただそれだけの気持ちで、動いたろう。
 だがおれは感じてしまう。自分が人のためになにかをするとなると、とたんに、うそ臭いような、薄ら寒いものを感じ取り、自分を嘲って笑わないと、バランスが取れない。
 なんぎだ、まったく、くっだらねー。
 そうやって時々自分を笑いながら、それでもおれは、ぽろぽろとギターを爪弾き、小さな、小さな声で歌をうたった。おれの歌はヨウスケの寝息と混じり、空気をふるわせて、消えていく。




「お前の夢を見た」
 ヨウスケがとうとつにそう言った。おれは、へえ、と気のない返事をする。
「それ、新手のナンパ?おまえのゆめをみた、か。なんつうかロマンチックだなー」
「……?なんでおれがお前をナンパしなきゃいけないんだ」
 ヨウスケが訝しい様子でそう聞いた。おれは手を振り、冗談だって、と笑う。
「で?どんな夢だったんだ?」
「どんな……」
 ヨウスケは腕を組んで黙り込む。お前から話ふってきたんだろ!と、おれは心の中で突っ込みつつ、ヨウスケの言葉を待つ。
「……どんなだったか。忘れたな」
「わ、わすれたのかよ」
「チッ……。夢とはそういうもんだろう」
 ヨウスケは不機嫌そうにそういう。なんでおれが怒られなきゃいけねーんだ!とは言わず、おれはかわりにきいた。
「じゃあなんで、おれが出てきたことは覚えてんの?」
「それは……」
 ヨウスケは、それなら答えられる、というふうに、小さく笑った。
「起き抜けに、思ったからだ。ヒジリに会いたい、って」
 まちがいなくお前の夢だ。ヨウスケはそう言いきり、そして、どうした?とおれの顔をのぞきこむ。おれは手の甲で頬をこすり、苦笑いした。
「すげー、殺し文句。こわいよ、おまえ」
「なにを言っている……」
「ほんとこわい、」
 おれはうつむいた。いつの日かこいつの口から、続きの言葉が出てきそうで、それが、もう、心底怖い。よろこびそうになる自分が怖い。信じるな、期待するなよ、けっして。釘を何本も何本も打っておく。浮つくあたまを押さえつける。
「ヒジリ?」
「や、なんでもね。んじゃ、またなー」
 おれはヨウスケに手を振り、その場を去った。廊下を曲がってひとりきりになり、ようやく息をする。前髪をかきあげると、額は汗でじっとり濡れていた。そのままじっとしている。おれはおれのなかの暗闇と対峙する。ほんとうはわかっていた。おれは甘えているのだ。おれだけ汚れている、おれだけ外れている、そういう風にじぶんを捉えて甘えている。だから人を信じないのもしょうがないよな、なんて、正当化しているだけなのだ、結局人の好意に向き合うのが怖いだけの臆病者、なんら特別でもなんでもない、取るに足らない人間だと、それを認めるのがこわくて。
 おれはそれでもじっとしている。
 身に降りかかりそうになる幸せを、鬼の形相で振り払う。


おしまい

2010年7月4日 保田のら