果てに幸福



 まだ怒ってんのぉ、と、ヒジリは能天気な声で言った。怒ってません、と返事すると、
「やっぱ怒ってんじゃん。そうゆうとこが、暗いって言われる原因だろー」
と、笑いながら言われる。駿河はさすがにカチンと来て、ヒジリの顔を軽くにらむ。
「それを言いだしたのは、アンタでしょう」
「あり?そうだっけ。ま、どうでもいいんじゃね」
 ヒジリの笑顔はあいかわらず明るい。明るすぎて、軽快と軽薄の間をさまよっているようだ。いつも、暗い、のっぺりしている、なんて言われる駿河からすれば、彼の陽気な性質は理解しがたかった。
「というか、早く行ってください。教官が探してましたよ」
「えっ、マジ!?よっしゃーあいつ、ついにおれに愛の告白をする気になったか。」
「……どうでもいいから、はやく行ってくださいね」
「ほいほーい」
 振り返りざまにひらりと手を振り、ヒジリは廊下の奥へ消えた。大きなため息をつき、駿河もヴォクスの様子を見に行くために歩き出した。





「つまり、お前に足りないのは、執着とか、執念とか、固執とか、粘りのような、しがらみのような、ともかく、そういった強い思いだろうな。それがないから、深みを知れない、浅はかな結論しかだせない。表面だけをさらって、分かった気になって、でも本当にはわかってないってことにも気づいているから、結局、情熱も生まず、ただ淡々と、表面だけですよ、と公言しながら表面だけを伝える。ひねりがない。工夫も奥行きもない。右から左、左から右、ただそれだけだ。
 それでは、明日から、ヴォクスのオペレーターとして働いて欲しい。」

「…………は?」

 散々ぼろかすに言われた後に続いた言葉の意味がわからなくて、駿河はぽかんと口を開けた。甘粕は表情を変えずに、もう一度同じことを繰り返した。
「明日から、ヴォクスのオペレーターとして働いて欲しい。……話は以上だが、何か質問は?」
「え、あ、あの、」
 駿河は前につんのめるように口を開いた。
「ど、どうしておれみたいな、その、無能が、ヴォクスのオペレーターに選ばれたんですか」
「無能?無能を選ぶほどLAGはひまではない」
「でもさっき、おれのこと、あんだけぼろくそに……」
「心外だな。褒めたつもりだったんだが」
 甘粕は、予想していなかった、と言わんばかりの、気の抜けた顔でそう言った。
「ほ、褒め……?」
「ああ。ひとつのところに固執しないのは、柔軟性と広い視野があるということだ。また、オペレーターは確証ある事実を情報として伝達するのが役割で、憶測や考察はその範囲ではない。大事なのはその認識ができるかどうかだ。自分の役をわきまえ、全うできるかどうか。
 どうだ、おまえにぴったりだろう」
 甘粕は小さく笑う。それを見ながら、自分の胸に、小さな炎がともったのを、駿河は自分自身で感じ取っていた。自分の力を認めてくれる場所、自分の力を発揮できる場所。おれにできるだろうか。いや、おれがやってみせたい。成し遂げたい!
 次の瞬間、駿河は頭を下げていた。よろしくおねがいします、と、今までにないほどの大声を上げて。





 夜、海辺を散歩するのが好きだ。第一に、誰にも会わないですむ。そして静かだ。砂を踏みしめる音だけが、波の音に乗ってささやかに響く。
 とうとつに、駿河の足が止まった。
 誰かが砂浜に座り込んでいる。
 駿河がそっときびすを返そうとすると、その人物は振り返り、
「行くなよ」
と静かに言った。波に掻き消えずよく通る声だった。すぐにその声の主がわかる。駿河はますます帰りたくなったが、仕方なしに、そちらへ歩み寄った。
「……風邪ひきますよ」
「いんだよ、おれなんて風邪のひとつでもひいちまったほうが」
 でも喉が、と言いかけて、きっと今の彼にとってそれは禁句だろうと口をつぐむ。ヒジリは空を仰ぎ、でたらめなメロディーにのせて言葉をつむいだ。
「いつでも明るくまえむきでーセンチメンタル大嫌い、でもほんとはすっごくナイーブでー……」
 ヒジリらしくない、のどを絞るような苦しそうな声だった。駿河はとても口をはさめない。
「そんなおれみたいなクソに代わりがつとまるわけないって、ほんとはよくよく身に沁みているのさ」
 最後は歌か詩だったか、ヒジリの声は波の音とまざりあって消える。
「……で?感想は?観客さん」
 ヒジリは悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った。
「おれはいつでも、サポートします。……それくらいしか、おれ、できないし」
「ははっ。そりゃ頼もしーなー」
 そう言ってヒジリは立ち上がった。背に月光を受けて、髪が、輪郭が、かすかに光って、駿河の心を不穏に撫ぜる。
「じゃあさ。おれがくじけそうになったら、おれだけに回線つないでさ、がんばれって、言ってくれる?」
「は、……はあ」
「約束な。おれ、おまえの声、落ち着くから好きなんだ」
 月光を浴びて、ほの輝く、まるでどこかのラブソングのように。ヒジリは駿河をみつめたまま、小さく口を開いた。ああ、歌があふれる、そう感じた駿河の思いとは裏腹に、ヒジリは、おやすみ、と小さく言っただけだった。





「事実だけを、述べてくれよ」
「はい」
「もうすぐ始まる会戦。おそらく最後。勝率は?」
「計算できません」
「ライダー全員の生存率は」
「計算できません」
「現在観測されているナイトフライオノートの数は」
「レーダーが捕捉できる範囲で、千を優に超えています」
「ではさっき渡した飴の味は、何味だった?」
「………分かりません」
「食べていないのか?」
「食べました」
「なら知らない味だったのか?」
「いいえ、……というより、……」
 駿河はうつむきそうになる自分を奮い立たせ、甘粕を見た。
「まったく味が分かりません。おそらく、緊張していて……」
 それを聞いた甘粕はかすかに笑った。口を開いて、小さくなった飴玉を見せ、言う。
「実は僕にも、さっぱり分からないんだ。」





 ヴォクスは航行を維持できず、まもなく墜落する。その事実を知るやいなや、駿河は即座に回線をつないだ。通信の向こうでは、身を削るような、悲鳴じみた物音が、絶えず聞こえている。駿河はそれをじっと聞いていた。そしてひとこと、
「がんばれ、」
と、つぶやいた。
 その音声にはノイズが混じり、ただの雑音となって電波に乗る。直後、ヴォクスの主電源が落ち、間をおいて予備電源が作動した。モーターが唸り、パネルが点いては霞む中、
「サンキューな、駿河」
という声が、ノイズまじりのスピーカーから、確かな響きを持って聞こえてきた。
 駿河がふたたびマイクのスイッチを入れようとしたとき、不意に轟音が響き、つづく衝撃、すべての機能が即座に停止する、一切の照明が落ち、周囲の闇と同化して、
 それきりだった。


おしまい

2010年7月10日 保田のら