“だから僕は君の意地悪な目配せを ありったけの勇気を込めて無視する事にした”
(eastern youth/いつだってそれは簡単な事じゃない


 日吉が苦手だった。いや、たった今、苦手になった。おれは先輩も後輩も同級生も、みんな大事な仲間だと思ってるし、今以上にもっと仲良くなれたらと願っている。日吉だってそうだ。確かに彼は言葉がキツいし、先輩に食って掛かるのはよくないと思うし、考え方が自分とぜんぜん違うと感じることもたくさんあった。でもおれは歩み寄りたいと思っていたし、日吉だってそうだと勝手に望んでいた。
 なのに聞こえてしまったのだ。こんな気持ちになるなら、本当、聞かなきゃよかった。
 宍戸さんが練習を見に来てくれると聞いて、早く部活に行きたかったある日の放課後、その日に限って帰りのホームルームが長引いて、終わったとたん慌てて教室を飛び出した。部活棟に向かい、レギュラーのロッカールームの前で立ちどまる。おれがすぐにでも中に入らなかったのにはわけがあった。部室のドアがちゃんと閉まってなくて、中から、聞き捨てならない話し声が聞こえてきたのだった。
「おれ、鳳のこと、苦手なんで。」
 はっきりと言い放つような声音だった。おれはドアノブに伸ばした手を反射的に引っこめた。心臓が縮み上がるほど一気に跳ねた。耳や目の奥が熱い。でも、背中だけは凍るように寒かった。
「ったく、そうやってつっぱねんなよ、若」
 続いて聞こえたのは宍戸さんの声だった。ああ宍戸さん、遅れてごめんなさい、ホームルームが長引いちゃったんです、急いで着替えるからおれの練習を一番に見てください。そう言いながら中に入ってさっさと着替えたかった。でもおれの体は耳ばかりでかくなったみたいに神経が集まって、他はいくらも役に立たなかった。
「長太郎は付き合いやすい奴じゃねーか。ちゃんと仲良くしとかねえと、3年になったときしんどくなるぞ」
「付き合いやすいってなんですか?おれは、あいつのそういう雰囲気がいちばん付き合いづらいです」
 吹く風が急に肌寒く感じられた。そういやもうすぐ冬だっけ。ああだめだな。ほんといやだな。なんだかもう滅入っちゃうな…。おれはぼんやりした足取りで部室の裏に回った。中の二人がユニフォーム姿で出てきてコートに向かうのを目で追ってから中に入る。さっきまでのいい気分は、宍戸さんが来ると喜び駆けて来た気持ちは、もう木っ端みじんに吹き飛んでしまった。心の中のもやもやは、片っ端からため息になり、おれの体から抜け出そう、抜け出そうと、必死になっていた。


「おれだって。日吉のこと、よくわかんないよ」
 結局おれは黙ってられなかった。その日の帰り、一人で帰ろうとする日吉を捕まえておれは言った。日吉の反応が怖かったが、彼は案外けろりとした顔で、
「聞いてたのか」
と言うのだった。
「聞こえちゃったんだよ。あんな風に……自分の知らないところで、自分のこと言われてたら、傷つく」
 言いながら、気持ちってこんなにはっきり言えるもんなのか、と自分自身で驚いていた。人に対して怒ったりすることがあまりないから、おれは、おれに新鮮味を感じていた。変なの。
「そうか、悪かったな」
 日吉の言葉は端的だった。まだ何か続くのかと待ってみたが、彼は何も言わなかった。だからおれが言う。
「日吉はおれのどういうところが嫌いなの」
「嫌いなんて言ってないだろ。あんときは…なんて言ったんだっけ」
「苦手って」
「そうだな、そうだよ。苦手。ニュアンスが違う」
「変わらないよ、結局おれと仲良く出来ないって言ってるんじゃん、」
「歩こうぜ、鳳。学校が閉まる」
 日吉はおれの言葉を遮って歩き出した。あわててそれを追い、校門から出て街灯に照らされた夜道をあるく。日吉も電車だっけ、方向は違ったかな、なんてことを考える余裕はあった。日吉の背中はどんどん前に行く。おれは早足でついていく。あっという間に駅についてしまいそうだ。そんな風に考えていたら、
「おまえの」
 日吉の話は唐突に始まった。
「素直なとことか、気持ちが顔にでるとことか。懐こいとことか、慕われるとことか。…苦手なんだ。無性に腹立ったり、悔しくなったり、宍戸さんにも突っぱねんなって言われたけど。でも突っぱねる。おれ、多分おまえに嫉妬してんだ、いろんなこと。おれにできないことできるのが腹立つ。楽しそうなのがむかつく。そういうおれの一方的な気持ちだから、べつに、言葉にするつもりなかったけど。宍戸さんがあんまりにしつこく聞いてくるし。仲良くやってるかとか、長太郎がどうとかこうとか、もういやになるくらい。だから、宍戸さんを黙らせたい気もあって、あんときは、ついああ言った。言ったら止まんなくなった。そんだけ、……」
 日吉は言葉を切って、ため息をつく。
「おれすげー嫌なやつだな。自分で分かってるから、いいけど」
 けろっとした声音。決して湿っぽくならないように、日吉の言葉はあっさりした響きでおれの耳の届いた。そのまましばらく沈黙する。日吉はくるりと振り返り、鳳?とおれの顔を見た。そして目を見開いた。
「な、なんで泣いてるんだよ」
「ひよし、」
 日吉と目が合うとたまらなくなっておれは日吉の名前を呼び勝手に盛り上がって余計に泣けてしまう。
「おれ、分かってやってたかもしれない、日吉が今言ったこと……さいていだ、そりゃ日吉だってそんな気持ちになるよ」
「な…なにが?」
「日吉がおれのこと見てておれに腹立ててるのの分かってて、上手くやれる自分に満足してたんだきっと。最低だ、こんな嫌なやつ他にいないよ」
「鳳、泣くなよ、たのむから。お前に泣かれると、面倒くさい。だいたい、そんなつもりで言ったんじゃない。嫌なやつはおれで、おまえじゃないから」
「そんなこと言わせてる時点でおれがいちばん最低だよ!」
 こみ上げる気持ちが治まらない。でもこの涙だっておれは日吉のためじゃなく自分のために流してるんだ、きっと。自分を許したいから泣いてるんだ。日吉がいくら何を言っても、おれはおれの気持ちをごまかせない。日吉が言ってくれた嫉妬心、おれは知ってた。きっと分かっててやってた!
「もういいって……鳳、悪かった、ほんとうに」
 日吉の言葉に、おれは首を横に振る。目を乱暴にこする。何度ぬぐっても涙は止まらない。駅はもうすぐそこなのに、こんなじゃ帰れない。日吉の家族が日吉のこと心配する…
「いいかげんにしろ!話を聞けよ!」
 日吉が怒鳴った。夜なのに。
「おれ、おまえのこと好きだ、腹立つこともあるしどう付き合っていいのか分かんねーけど、苦手だけど、でも好きだし、す、好きだから、自分のこと責めたりするなよ、もう。いいから」
 おれは目をこすって、細めた目で日吉の顔を見た。目が合うと、反射で日吉の目線がそれた。でも、すぐに戻ってくる。日吉の目が俺を見ている。
「もう言わせるなよ。おれの柄じゃないんだ、こんなの、」
 そういっておれの服のすそをひっぱり、もう帰ろう、と言って、とぼとぼと歩き出した。おれはどうにか涙を堪えながらそれについていく。明日からうまくやれるだろうか。今までどおりやれるだろうか。やっていきたいなら言わなきゃだめだな。きっとそうだ。
「日吉……」
 背中に向かって小さい声で、
「ありがと」
おれはそう言った。
 駅に着いた。案の定、方向は逆だった。改札を通ったあと、階段はふたつに分かれている。日吉はおれに向かって小さく笑い、
「また明日な」
と手を振った。そして振り返りもせず、階段をのぼってあっという間に見えなくなった。おれもおれのホームに向かう。上に上がると、ちょうど日吉のホームに電車が来たところだった。日吉がどこにいるかは分からない。電車は音を上げ、線路を滑っていってしまった。おれはベンチに座り、ぼんやり向かいのホームを見つめながら、おまえのこと好きだ、と言ってくれた日吉のことを思い出していた。
 あのときおれは日吉の後ろにラブ・アンド・ピースの光を見た。うらやましくて憎らしかった。そしておれだって、日吉が好きだ、と思った。
 あのときちゃんと、言ってやればよかった。

おしまい


2012年6月3日 保田のら
冒頭の一文はeastern youthの「いつだってそれは簡単な事じゃない」の歌詞から引用しました。
個人的にこの曲は鳳ソングだと思ってます。