突き放して軽蔑しろ


「俺を見ろよ、イヴァン」
 ルキーノの声は鬼気迫っていた。ルキーノを取り囲んでいるのは、無数の死体だ。銃で撃たれていたり、殴られたり、刺されたり、それはもう惨たらしい有様で、敵も味方も入り混じり、重なり、横たわっている。
 俺は、ルキーノのそばに行こうとした。行ってやらないと、と、強く思った。だがどうしても、足がすくんで動けない。膝から下をコンクリートで固めて、地面にくっつけちまったかのように、自分の力ではどうにも動かない。だから俺は恐る恐る、目だけを動かして、ルキーノの顔を見た。正面から目が合った瞬間、そのあまりの熱に、目が焼きついてしまうかと思った。
 狂気だ。
 あれは狂気。
 俺の眼は危険を避けるかのように、反射的にルキーノから視線を外した。まぶたがピクピクと律動する。本当ならこの場から駆け出してしまいたかった。だが、足が動かない。前にも後ろにも行けない。進退窮まり、ただ俺は、この一瞬の危険を避けたくって、ルキーノの目を見返せない。
 ルキーノは逃げた俺をじっと見つめている。そして、周りの空気全てを震わせるような、恐ろしく低く、響く声で、
「俺を見ろ」
と、呟いた。
 俺はでくの坊のように、命令されるまま、ルキーノの目を見た。やはり圧倒的な熱量。ルキーノの目の奥に、狂った炎が渦巻いている。その炎を惜しげもなく晒し、熱で俺を焼き殺したいかのように、ぎらぎら、ぎらぎらと、俺を睨む。
「なあイヴァン。もっと、ちゃんと、俺を見てくれよ。いつものまっすぐな目で、おれを見ろよ」
「見てる……、」
「見てねえだろ!」
 ルキーノが吠えた、空気が震えて俺の心臓も縮こまる。だがそれ以上に俺をどきりとさせたのは、ルキーノが、泣いているんじゃないかということだった。遠くてよく見えないが、あの歪められた顔、目から、涙の粒がこぼれたようにみえたのだけれど。ルキーノの声はけっして感傷的ではない。俺のほうがよっぽどセンチメンタルな心持ちだった。なのになんで、ルキーノが泣いているように見えるんだろう。
「見ているなら、」
 ルキーノの声から力が抜けた。俺の体が前のめりになる。今なら動ける、気がした。足を出す。足が出た。
「見ているなら、笑ってくれ。おまえは神か裁判長かよ、この糞勘違い野郎、って、笑ってくれよ。そうじゃなきゃ俺は、もう、とてもじゃないがバランスがとれん」
 足が出る、駆け出す、もちろん前に。俺はルキーノの元へ駆け寄った。そばで覗き込んだルキーノの目からは、涙なんて流れていなかった。
「何があった、」
 俺はそんなことを聞いた、そんなことしか聞けない自分に唾を吐きつけたかった。ルキーノは答える代わりに腕を伸ばし、俺を抱きかかえた。俺を壊したいんじゃないかと思うほどのとんでもない力で、俺の体を締め付ける。俺は息が出来なくてもがいた。ときおり腕の力が緩むたび、どうにか息継ぎをする。吸い込む空気から血の匂いがした。
「俺の中にこんなクソみたいな衝動があったなんて」
 ルキーノは俺の肩に顔を埋めながら言った。俺はこいつに抱きすくめられながら、この腕が殺した人間のことを考えていた。銃で撃たれていたり、殴られたり、刺されたり、それはもう惨たらしい有様で、敵も味方も入り混じり、重なり、横たわっている……。
「落ち着けよ、とにかく、落ち着けって……」
「優しくしないでくれ。だめだ。俺は、許された気になっちまう。今、許されたくてたまらないんだ。だから甘やかすな。突き放してくれ。軽蔑しろ。そうじゃないと、ちょっとでも甘えちまうと俺は……」
 ルキーノは一気にそう言った。しかし、突き放せといいながら、けっして俺を離そうとしない腕には、ますます力が込められる。俺は痛えと身をよじった。あまりに痛くて涙が出る。一度出ると、もうとまらず、次から次へと溢れていく。拭いたいが、両腕がふさがっているので、どうしようもない。流れるままに涙は流れる。嗚咽をもらさないよう、しゃくりあげそうになる呼吸を悟られないよう、腹に力を入れてゆっくり息をする。
 ルキーノは小さな声で何かを呟き始めた。よく聞き取れないがイタリア語のようだ。それは神への懺悔のような、独白のような、神聖な響きで俺の肩を震わせる。ちくしょう、ちくしょう……俺が呟けるのはただの文句だけで、それはなんの響きも持たずに嗚咽の中に埋もれて消えた。


おしまい

2010年5月13日 保田のら
いっこまえの「爆ぜるまなこで」の対のような話でした…